前編では、東京・恵比寿で自身の撮影スタジオ「photostyling75c」を経営する渕本奈美さんが、生後100日のお嬢さんを抱えながら、どのようにして韓国の人気スタジオを日本で展開させていったのか。奈美さんの10代、結婚までの20代前半も振り返りながら、経緯をうかがいました。後編は、「自分が本当にやりたいことができていない」と自信をなくしてしまったお話から、現在の「パーソナルプロデュースフォト MOI(モア)」についてもお話いただきました。
■「逃げ出したい!」気持ちから、大分・湯布院へ
「自分で選んだ道なのに、苦しくて全てから逃げ出したかった。全てを捨てたかった」という奈美さん。仕事にも集中できない状態に陥ってしまいます。そのとき、お嬢さんが叔母(奈美さんの妹)が住む大分・湯布院で中学生活を送りたいと希望したため、奈美さんも一緒に引っ越しすることを決意。お嬢さんが小さい時から両親や妹に預けて仕事をしてきた奈美さんは、むこう3年間、初めての子育てをすることになりました。
―せっかく立ち上げたスタジオから遠く離れて大分に行かれた理由は何だったのですか?
奈美さん:東京では、私がスタジオに顔を出さなくてもスタッフだけで仕事は回っていたので、私が東京にいる必要もないのかなって。今思うと「スタッフにどんどん仕事を任せていく」という大義名分のもとに、現実から逃げたかったんですよね。
―湯布院では、どんな風に過ごされたのでしょう。目の前の現実から少し距離を置いて、何か見えてきたものはありましたか?
奈美さん:毎日温泉に入ってのんびり過ごしました。大自然の中に身をおいているだけで、癒されますしね。東京のスタッフを1人ずつ大分に呼び寄せて、色々話したりもしました。仕事から離れたことで、逆にスタジオのことを客観的に考える時間が増えましたが、じっくり考えれば考えるほどスタジオが抱える問題点がますます浮き彫りになってきました。
当時は都内を中心にスタジオが4店舗あったのですが、どのスタジオも異なるコンセプトとターゲットを設定して、私のこだわりを注ぎ込んで表現したものでした。思い入れのとっても深いところばかりです。でもそのスタジオで撮影された写真を見ても、特別感を感じることができない。全くワクワクしていない自分に気づいたんです。
ーその「全くワクワクしない」という奈美さんの中でくすぶるものの正体は何だったのでしょうね。
奈美さん:「このままではいけない」と危機感も膨らみ、時々東京に戻っては、各スタジオの店長たちと店舗のあり方について議論を重ねました。でも何度話しても、お互いの話は平行線。フォトスタジオは、特別な1枚を撮る場所であることは明白だけど、それをどこまで追求するのか。うちじゃないと撮れない1枚にこだわるべきだと思う私と効率を求める現実的な思いが、どうしても交わることができない。仕事はお金を稼ぐことが大事だけれどお金が入ってくればそれでいいのか?と聞かれれば私は絶対にノー。「うちでなければいけない理由」が感じられないスタジオの経営を続けるのはとても苦しかった。どれだけ悩んでも、妥協してでもスタジオ経営を続けるその理由が私には見つかりませんでした。
さらにスタッフによる裏切りも発覚。自分の人生にこんなひどいことが起こるなんて思いもしていなくて、「誰も信じられない」と打ちのめされました。それから誰とも連絡を取らず、ひたすらネット配信の連続ドラマを見て自分の空に閉じこもり続けました。
―奈美さんがおっしゃる「初めての子育て」は、いかがでしたか?
これもまた大変でした。13歳の娘は、ちょうど思春期。衝突することも多くて戸惑うばかり。娘の反抗的な態度にどう対応していいのかがわからないし、ここでもまた悩みました。仕事にも子育てにも自信が持てず、生きているのが本当に苦しかった時期でした。
ところが。閉塞感の中で長い時間を過ごしている私の世界に光が射しこむような出来事がありました。近所に住む妹に4番目の男の子が生まれたのです。よく泣くその子は、私が抱くとすぐ泣き止んで、毎回満面のほほえみを返してくれるんです。苦しい毎日の中でその子の存在が私にとって唯一の癒しになりました。その甥っ子と過ごすうちに生きる元気が湧いてきたのです。
東京から遠く離れた大分・湯布院での3年間。大きな自然の中で、のんびり過ごされたのかと思いきや、公私ともに葛藤を抱き続けながらの日々でした。「苦しかった」とおっしゃる奈美さんに光を与えた出来事は、甥っ子の誕生。小さな命によって前を向き始めた奈美さんは、新たに動き始めます。
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